6月 21, 2007 | In: copyright

白田秀彰先生の魂の叫びを聴いて

今更ですが、先週金曜に行われたthinkcopyrightのトークイベントvol.3「コミケ、2ちゃんねる、はてなセリフと作家と著作権」について。 このイベントについては、はてブ界隈で既に上がっている通り、総統こと白田先生の素晴らしい演説があった(マジで泣いた)わけですが、その全文はこちらで読んでいただくとして。

平成十九年六月十五日白田秀彰演説記録 まず、↑の演説記録について私の記憶を頼って、若干の捕捉を。大筋には全く影響ない部分ですが、個人的に感動した箇所の言い回しがちょっと気になったので。

私はその研究に5年かけたんだ。貴重な若い時間を費やしたんだ。

ここは

私は5年間研究して、やっと真実だと思えるものを掴んだんだ!貴重な若い時間を費やして。

みたいな感じでした(←あいまいw)
でも、この「掴んだんだ!」ってところで私はまずグッときてしまったわけで。
それから

いいですか… 社会のほとんどの人が「著作権は天才の権利だ」と信じて、それを強化拡大しようとする側にいるとき、シーソーは、圧倒的に権利強化の側に重く傾く。そのとき、たとえ100mの空高くはじき飛ばされようと、誰かがシーソーの反対側に立たなければ均衡など維持できないではないですか。

ここの後半は

しかし、たとえ100mの空高くはじき飛ばされようと、私はシーソーの反対側に一人でも立ち続けますよ。

とか言ってた気がします。「誰かが立つ」んじゃなくて「自分が立つ」という意思表明をされていたという記憶が。 まあ、記憶なんていうのは曖昧なものなので、私の脳内で勝手に変換されているという可能性もありますので、あくまでこういう風に受け取った人もいる、位に捉えていただければ幸いです。
それから不幸な誤解 を招いてしまったCNET高瀬さんの記事 についても少しだけ。

イベント内で中心話題のひとつとなったYouTubeについては「他人の著作物をそのままアップロードしているだけで、何らクリエイティブ活動とは認めら れない」とバッサリ。
「本来は(パッケージ商品の購入など)お金を出して楽しむべきコンテンツを無料で視聴するなどという下品なことはやめるべき。単なる コピーだけでは何の発展性もない」と日本でのYouTube需要そのものを切り捨てた。

こちらについては既に半可思惟:プチ白田先生祭のまとめ で触れられていますが、

白田先生がクリエイションの増大を可能とする制度に関心があり、できる限りファン活動からオリジナル・クリエイションへ誘導できないかという問題意識を持っているという話をされた後で、CNETの記者さんが「YouTubeにテレビ番組をアップするような行為についてはどう思うか?」と尋ねたため、白田先生は「他人の著作物をそのままアップロードしているだけで、何らクリエイティブ活動とは認められない」と答えていました。 つまり、YouTubeやニコニコ動画に投稿されているMADやFlashなどのファン活動が新たな創作につながるものだということは前提で、いわゆるデット・コピーのような著作権侵害行為は「何の発展性もない」と述べたのです。


ということです。更に一点だけ付け加えるなら、白田先生は上記の「他人の著作物をそのままアップロードしているだけで、何らクリエイティブ活動とは認められない」発言をされた際、「他の方法で入手困難な(不可能な?だったかも)コンテンツならまだしも…」というような留保をされていたように記憶しています。

デッド・コピー的なYouTubeへのアップロードですら、例えば現在商業的に流通しておらず、将来的にも流通する可能性が薄いコンテンツについては一定のルールのもと公開するなら新たな創作につながる行為として意義を認めうる、という立場なのかなと推測したのですが、それはまあ推測ということで。

さて、ここまでが長い前置きで、実は私が忘れないうちに書いておきたかったのは「著作権」と「表現の自由」の関係についてのメモです。

今回のトークイベントを聞いて、初めて自分の中で話がつながった気がしたので。

まず、基本的人権の一つとして「表現の自由」というものがあります。これは原則的に守られなければならないものなので、日本においては憲法21条で

「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」

と定められています。一方で、この「表現の自由」は他の基本的人権と同様に、その濫用によって他者の人権を侵害してはならないものです。

この濫用を規制するために「名誉毀損」「誹謗中傷」「営業妨害」「プライバシーの侵害」などの概念があるわけです。

さて、ここで「著作権」を出してみますが、英米法では著作権は功利的・便宜的なものとして捉えられます。

つまり、著作物の独占的利用権を与えることによって、著作者に正当な利益が分配されることを促し、その結果として創作活動へのインセンティブを高めるために政策的に設定した権利ということです。

これに対して大陸法では、著作権を著作者の自然権ととらえて、著作者の人格的利益を保護することを目的に著作権法というものがあるということです。

では、英米法と大陸法で概念が違うことで「表現の自由」との兼ね合いはどうなるのか?

英米法の概念ならば「表現の自由」は人権であり自然権です。これに対して「著作権」はあくまでも便宜的なものなのですから、この二つの権利が干渉する領域においては著作権の行使できる範囲は最小限度にとどめるべきだということになります。

しかし、大陸法の概念では「著作権」もまた自然権なのですから、どちらが多く譲るというものではありません。

・・・なんだか断定的に書いてしまいましたが、私は法学についてはド素人なので、上記のメモには突っ込み所が満載の可能性が高いです。もし詳しい方がこのページを通りかかることがありましたら、間違い・不正確な部分などご指摘いただければ幸いです。

ちなみに、白田先生は「著作権」を「表現の自由」に対する「制約」と表現されていました。これはちょっと新鮮でした。

個人的には、著作権というものの扱いについては、やはり英米法の方がなじむように思えます。

これは著作物の創作活動をどのように解釈するかというのが分かれ目になる気がしますが、私は創作活動、すなわちアウトプットはインプットに相当の部分規定されると感じています。

手塚治虫は素晴らしい漫画家ですが、例えば彼が500年前に生まれていたとしたら、彼の作品は確実に違ったものになっていたはずです。

日本ではなく別の国に生まれた場合も同様でしょう。

私にとって創作活動のイメージは、膨大な情報が創作者というフィルターを通して変換されて放出される、というものなので(フィルターの善し悪しはもちろんありますが)フィルターだけでは何も産み出し得ない、と思ってしまうのです。

ですから、大陸法の解釈を聞いていると、どうしてもしっくりこないんです。

著作権法については、いろいろ動きがあると思うので、これからもヲチしていく所存です。